読売ジャイアンツの歴代投手

球界の盟主と言われるだけあって、読売ジャイアンツには名投手が多い。伝説の名投手としてその名が投手最高の栄誉となっている沢村栄治。そして読売ジャイアンツのV9を支えたエース堀内恒夫。さらには平成の大エースとして、読売ジャイアンツを牽引した斎藤雅樹の3人をクローズアップしました。

BBCrix編集部

読売ジャイアンツの前身チームで唯一アメリカチーム相手に快投した沢村栄治

1リーグ時代に伝説の大投手・名投手が集中 | 週刊ベースボールONLINE

沢村栄治
読売ジャイアンツ通算5年、105試合、63勝22敗、防御率1.74
最多勝利2回、最優秀防御率1回、最高勝率1回、最多奪三振2回
ノーヒット・ノーラン3回

沢村賞。先発完投型の最高の投手1名を、毎年12球団から原則1名が選出される賞です。1950年、読売新聞社が戦前の読売ジャイアンツ剛速球投手・沢村栄治の栄誉と功績をたたえて制定した制度です。沢村栄治は、職業野球が存在しなかった1934年にアメリカ大リーグチームとの試合に全日本の一員として登板。8回をルー・ゲーリックの本塁打による1点に抑え敗戦したものの、強烈なインパクトを残しました。

その後、沢村は読売ジャイアンツの前身となった大日本東京野球倶楽部、そして東京巨人軍に所属。史上初のノーヒット・ノーランなどを達成するなど読売ジャイアンツの初優勝に大きく貢献しました。その後も、突出した成績を残し、読売ジャイアンツそしてプロ野球黎明期を支えた一人となります。しかし1938年からは招聘され戦地に赴きます。すると読売ジャイアンツのみならず球界の至宝、沢村が戦地で肩を負傷。一時復帰した時には、沢村はアンダースローに転向せざるを得なくなっていました。さらなる招聘に応じシーズンを棒に振ると、1944年に読売ジャイアンツは沢村を解雇。しかし悲劇はまだ続き、同年12月に戦死。27歳という若さでした。

読売ジャイアンツは沢村のつけていた背番号14を永久欠番に制定。1947年には野球殿堂入りも実現しました。

入団から13年連続二けた勝利で、読売ジャイアンツV9に貢献した堀内恒夫

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堀内恒夫
読売ジャイアンツ通算18年、560試合、203勝139敗6S、防御率3.27
最優秀防御率1回、最高勝率3回、最多勝1回、新人王、沢村賞2回、MVP1回

前人未到の読売ジャイアンツのV9。ONを中心とした打撃陣が目立つ連続制覇でしたが、この間、読売ジャイアンツの先発ローテーションを守ったのは意外にも少ない。その筆頭となったのは、V9の2年目に読売ジャイアンツの一員となった堀内恒夫。1965年、第1回のドラフト会議で読売ジャイアンツの1位指名を受け入団。初年度から読売ジャイアンツの主力として活躍します。堀内は44回連続無失点を記録するなど、いきなり16勝をマーク。新人王はもちろん沢村賞、最優秀防御率、最高勝率など賞を総なめにしました。3年目から読売ジャイアンツのエースナンバー18番を任されます。

V9後半に差し掛かった1972年、読売ジャイアンツの看板ONにも衰えが見え始めると、逆に堀内が仁王立ち。300イニングを超える投球回数、26完投はともにリーグトップとなり、26勝を挙げて初の最多勝を獲得し、MVPに沢村賞を手繰り寄せました。読売ジャイアンツのV9時代、ON以外がMVPを獲得したのは堀内のみでした。

V9を逸した読売ジャイアンツにおいて、堀内は以後もエースとして活躍。27歳で150勝をマークした堀内でしたが、1979年以降、二けた勝利をマークすることができなくなります。それでも、読売ジャイアンツ一筋では、二人目の200勝を達成。そして、読売ジャイアンツのV9時代のエースだけに、日本シリーズの登板も多かった堀内は、破ることが難しい記録を打ち立てています。堀内は、通算登板27試合、140回1/3の投球回数でシリーズ記録。シリーズ通算11勝も稲尾和久と並んでシリーズタイ記録です。さらに堀内の非凡なところは、バッティングでもありました。通算21本塁打をマークしている堀内は、自身がノーヒット・ノーランを達成した1967年には、1試合3本塁打と大暴れ。日本シリーズでの投手による1試合2本塁打は、いまだに破られていません。ゴールデングラブ賞も7年連続で受賞するなど、読売ジャイアンツのエースナンバーを守り、走攻守でチームを牽引しました。

堀内は、現役引退後、評論家・コーチを経て、2004年から読売ジャイアンツの監督に就任。しかし初年度3位、次年度5位と成績を残せず、自ら監督に辞任。チーム成績が下降していたため、仕方ない処置であったが、堀内監督は後に読売ジャイアンツのエースとなった内海哲也を辛抱強く起用。読売ジャイアンツの将来に布石を打っていました。

投手分業時代に、11試合連続完投勝利を達成した平成の大エース斎藤雅樹

殿堂入りに9年かかった斎藤雅樹。無口、背筋、そして伝説の10.8。 - プロ野球 - Number Web - ナンバー

斎藤雅樹
読売ジャイアンツ通算18年、426試合、180勝96敗11S、防御率2.77
最多勝5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、最高勝率3回、沢村賞3回、MVP1回

沢村賞3度の受賞は、斎藤含めてたったの4名しかいません。平成のエースと言われた斎藤でしたが、読売ジャイアンツ第10代目監督の藤田元司氏の言葉が無ければ、そう呼ばれることは無かったかもしれません。1982年のドラフトで、読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。当初は打撃、守備センスを買われて野手転向も本気で勧められていました。しかし、藤田監督のアドバイスで斎藤はサイドスローに転向。すると1985年に、斎藤は12勝をマークして初の二けた勝利を達成。以降、低迷が続きましたが、読売ジャイアンツ監督に再び藤田氏が就任すると、斎藤がエースとなるきっかけをつかみます。

藤田監督は斎藤の精神面を指導。いくら打たれてもマウンドから降ろさなかったことで、斎藤が覚醒。1989年には、3試合連続完封を含む、11試合連続完投勝利をマークするなど20勝をマーク。さらに翌年も20勝と、斎藤は読売ジャイアンツのみならず球界のエースに成長。1993年からは、5年連続で読売ジャイアンツの開幕投手を務めます。3年連続開幕勝利という離れ業を披露するなど、読売ジャイアンツのエースとして君臨。桑田真澄、槙原寛己らとともに、読売ジャイアンツの先発三本柱を形成するも、牽引していたのはまさに斎藤でした。

この読売ジャイアンツの3本柱が、1試合で登板した試合がありました。それは10.8決戦として伝説となっている1994年でした。中日と読売ジャイアンツとで稀にみるデッドヒートは、お互い譲らずシーズン最終戦を前にして同率首位。勝ったほうが優勝するという痺れる試合で、読売ジャイアンツは槙原を先発に起用。先制した読売ジャイアンツでしたが、2回に同点に追いつかれて槙原を諦めて、斎藤を起用。当時の読売ジャイアンツ長嶋監督が、採用を起用したのは、ずばりその守備力にありました。すると斎藤は、期待に応え見事なフィールディングでピンチの芽を摘むと、そのまま試合を支配。読売ジャイアンツが完全に主導権を握りリードを奪うと、7回から桑田にマウンドを譲りました。6-3で勝利し、胴上げ投手こそ桑に譲った斎藤でしたが、この試合の勝利、つまり読売ジャイアンツの優勝は、斎藤の手腕によるところが大きかったと言われています。

1997年、読売ジャイアンツの開幕戦で先発した斎藤は、ヤクルトに移籍してきた小早川毅彦に3連発を浴びるなど出鼻をくじかれると、シーズンを6勝で終わります。翌年10勝して復活をアピールしましたが、2001年はリリーフ登板も経験。読売ジャイアンツを長らく牽引した斎藤でしたが、ついにこの年で現役引退。投球回数2000回を超える投手の中で、通算勝率3位という非常に優れた成績を残しました。

斎藤は引退後も、読売ジャイアンツのコーチ業に尽力。読売ジャイアンツの一軍投手コーチに就くこと、通算8年、そして2016年からは読売ジャイアンツの二軍監督に就任。するといきなり読売ジャイアンツをファーム日本一に押し上げ指導者としても成功しています。

 沢村英治といえば戦前の職業野球を代表する大投手である
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