別当薫の監督としての活躍について

慶応大のスターだった別当薫は、プロでも史上初のトリプルスリーを達成するなど、パ・リーグ初代MVPを獲得。選手生活10年の晩年から別当薫は兼任監督となり、以降5球団で20年にわたって指揮を執り1,237勝をあげました。弱小球団の監督が多かった別当薫は、1,000勝達成監督で唯一優勝経験がありませんが、相当数の大打者を育てた名指導者でありました。

BBCrix編集部

別当薫の監督歴について

別当薫の監督成績

通算20年 Aクラス10回
1952年 毎日オリオンズ  別当薫 120試合75勝45敗0分 勝率.625 2位
1954年 毎日オリオンズ  別当薫 140試合79勝57敗4分 勝率.581 3位
1955年 毎日オリオンズ  別当薫 142試合85勝55敗2分 勝率.607 3位
1956年 毎日オリオンズ  別当薫 154試合84勝66敗4分 勝率.558 4位
1957年 毎日オリオンズ  別当薫 132試合75勝52敗5分 勝率.587 3位
1958年 大毎オリオンズ  別当薫 130試合62勝63敗5分 勝率.496 4位
1959年 大毎オリオンズ  別当薫 136試合82勝48敗6分 勝率.631 2位
1962年 近鉄バファローズ 別当薫 131試合57勝73敗1分 勝率.438 6位
1963年 近鉄バファローズ 別当薫 150試合74勝73敗3分 勝率.503 4位
1964年 近鉄バファローズ 別当薫 150試合55勝91敗4分 勝率.377 6位
1967年 大洋ホエールズ  別当薫 135試合59勝71敗5分 勝率.454 4位
1968年 大洋ホエールズ  別当薫 133試合59勝71敗3分 勝率.454 5位
1969年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合61勝61敗8分 勝率.500 3位
1970年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合69勝57敗4分 勝率.548 3位
1971年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合61勝59敗10分 勝率.508 3位
1972年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合57勝69敗4分 勝率.452 5位
1973年 広島東洋カープ  別当薫 130試合60勝67敗3分 勝率.472 6位
1977年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合51勝68敗11分 勝率.429 6位
1978年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合64勝57敗9分 勝率.529 4位
1979年 大洋ホエールズ  別当薫 130試合59勝54敗17分 勝率.522 2位

優勝未経験ながら、別当薫は強打者育成のプロであり名監督の称号を与えても問題ない

【私の失敗(4)】平松政次、プロ意識を目覚めさせてくれた長嶋さんの特大弾 (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)

中学時代からエースで4番の別当薫は、高校時代3度甲子園に出場。進学した慶応大学でも、別当薫はスターぶりを発揮しました。最後の早慶戦として知られる試合でも、別当薫は慶応の4番に君臨。戦後の再開時、慶応の優勝にも主将として貢献しました。その後、別当薫ノンプロを経て、大阪タイガースに入団。初代ミスタータイガース藤村富美雄とともに、別当薫はダイナマイト打線の中核を担いました。1950年、別当薫はパ・リーグの毎日オリオンズに引き抜かれましたが、変わらぬ打棒に俊足も披露。別当薫は、史上初となるトリプルスリーを達成し、本塁打と打点で2冠王となりパ・リーグ初代MVPに輝きました。第1回日本シリーズでも、別当薫はMVPを獲得し初代チャンピオン。1957年に現役引退した別当薫ですが、通算10年で打率は3割を超えていました。

別当薫は、現役引退の5年前に、毎日で監督代行、1954年からは正式に選手兼監督に就任していました。ここから、別当薫は長い指導者人生もスタートさせています。オリオンズ時代は、代行、選手兼任、監督専任と7年率いて、別当薫はAクラス6回と優勝には届かないまでも安定した成績を残します。しかし、別当薫の凄さは順位はもちろんの事、後の大打者を育成したことでもありました。毎日、大毎時代の別当薫は、後にミサイル打線のクリーンナップを打つことになる山内一弘、榎本喜八、葛城隆雄を育てます。山内、榎本はテスト生でしたが、別当薫の眼鏡に叶い主力へ成長し、ともに2000本安打も達成。この3人すべて、打撃タイトルを獲得したほど、別当薫には先見の明がありました。

その後、別当薫は1960年に渡米してメジャーリーグ野球を勉強。そして1962年から、別当薫は近鉄バファローズの監督に就任しました。当時の近鉄は球団創設以来、Bクラス常連であり、最高位は1954年の4位でした。別当薫が就任した1962年も、前年まで4年連続最下位。当時読売ジャイアンツから相当数の選手が移籍していましたが、その4年間、近鉄の勝率は2度も3割を切るなどまさに暗黒時代でした。この逆境の中、別当薫は投打に生え抜き選手の起用にこだわりました。別当薫は、プロで1勝も挙げていなかった久保征弘をエース格として起用。久保も、別当薫の期待に答えて先発、中継ぎ、抑えとフル回転し28勝で最多勝を獲得しました。そして、別当薫が打の軸に据えたのは、若干18歳だったルーキーの土井正博でした。別当薫は土井の長距離打者としての素質を信じて疑わず、結果が出なくても4番に起用し続けました。土井の1年目は、打率.231、5本塁打、43打点に終わりましたが、3年目には打率.296、28本塁打、98打点。その後は、別当薫の見立てどおり長距離打者に成長し、近鉄、西武で主力を張り続け、通算2,452安打、465本塁打、1,400打点を達成しました。別当薫の近鉄監督期間は3年で、6位、4位、6位でしたが、暗黒時代と比べると明らかに勝率が上がっており、1963年にはチームとして2度目の勝率5割越えも達成しました。

別当薫は、1967年からセ・リーグで大洋ホエールズの監督を務めます。名将・三原脩が弱小球団だった大洋を一気に日本一に導きましたが、その後再び低迷。1967年は、その三原監督の代行として、1968年からは正式に大洋監督に就任しました。しかしまさに時代は巨人V9の真っ只中。それでも、大洋は唯一その巨人に打撃で対抗できる球団でした。1969年から大洋は3年連続でAクラス3位を確保。ここでも別当薫は強打者を育てており、それこそ初代ミスターホエールズといわれた松原誠でした。1973年のみ、広島カープの監督を務めた後、1977年から再び大洋監督に復帰。このときは、田代富雄がいきなり35本塁打と覚醒。別当薫は最後の大洋監督時代、6位、4位、2位と徐々に順位を上げました。このまま別当薫が監督を続けていれば、三原監督に続く2度目の優勝となったかもしれませんでしたが、1979年限りで退任。結局、20年間の監督生活で、優勝の二文字を手に入れることはありませんでした。しかし最初のオリオンズ以外、いわゆる弱小球団の監督を歴任し、それぞれで強打者を育ててきました。さらにオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、そして大洋(横浜DeNAベイスターズ)ではともに球団最多勝監督、広島では歴代で唯一広島と関係が無いにもかかわらず監督歴任と別当薫のすごさはいたるところにあふれています。

【根本陸夫伝】広島を球団初のAクラスに導いた男|プロ野球 |集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
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