大矢明彦の監督としての活躍について

現役時代、ヤクルト一筋16年で捕手としてチームを牽引した大矢明彦。横浜コーチ時代に、谷繁元信を育て、自身が監督となると18年ぶりの2位を実現。大矢明彦は、翌年のリーグ優勝、日本一となるチームの基盤を築きました。さらにチームの再建を期待されて、2007年から第2期監督時代が始まりましたが、一転して首位から大きく出遅れた最下位を2年連続で喫してしまいました

BBCrix編集部

大矢明彦の監督・コーチ歴について

大矢明彦の指導者歴

1984年 大矢明彦:ヤクルトスワローズ選手兼任コーチ
1985年 大矢明彦:ヤクルトスワローズ選手兼任コーチ
1993年 大矢明彦:横浜ベイスターズバッテリーコーチ
1994年 大矢明彦:横浜ベイスターズバッテリーコーチ
1995年 大矢明彦:横浜ベイスターズバッテリーコーチ
1996年 大矢明彦:横浜ベイスターズ一軍監督
1997年 大矢明彦:横浜ベイスターズ一軍監督
2007年 大矢明彦:横浜ベイスターズ一軍監督
2008年 大矢明彦:横浜ベイスターズ一軍監督
2009年 大矢明彦:横浜ベイスターズ一軍監督

大矢明彦の監督成績

通算5年 Aクラス1回
1996年 横浜ベイスターズ 大矢明彦 130試合55勝75敗0分 勝率.433 5位
1997年 横浜ベイスターズ 大矢明彦 135試合72勝63敗0分 勝率.533 2位
2007年 横浜ベイスターズ 大矢明彦 144試合71勝72敗1分 勝率.497 4位
(交流戦3位)
2008年 横浜ベイスターズ 大矢明彦 144試合48勝94敗2分 勝率.338 6位
(交流戦12位)
2009年 横浜ベイスターズ 大矢明彦 144試合51勝93敗0分 勝率.354 6位
(実質は、37試合13勝24敗で休養に入る)
(交流戦12位)

1998年、横浜38年ぶりの優勝は、土台を作った大矢明彦の手腕でもあった

大矢明彦さん 見て和む画像壁紙集 | まとめアットウィキ

大矢明彦は早稲田実業時代、あと一歩で甲子園を逃していました。卒業後、駒澤大学に進学すると、大矢明彦は捕手、時には一塁手として出場し、ベストナインを4回受賞するほどの選手となりました。1969年ドラフト7位で指名され、大矢明彦はヤクルトアトムズに入団します。チーム事情もあり大矢明彦はルーキーからレギュラーマスクをかぶり、2年目に監督に就任した三原脩氏から配球術を学ぶと、長らくチームの正捕手を務めました。大矢明彦は現役生活16年で、6度のゴールデングラブに、2度のベストナインを獲得し、1979年の球団創設初優勝にも貢献しました。

大矢明彦は1984年から兼任コーチをつとめており、怪我の状態もあって翌年に現役を引退。その後、大矢明彦には日本ハムファイターズ監督の話が立ち上がるも就任にいたらず。1993年から、大矢明彦は横浜ベイスターズの初代バッテリーコーチを3年間務めます。この間、大矢明彦と同じ捕手だった谷繁元信の育成に大きく貢献しました。

そして1996年からは、同チームの監督に就任しました。前年、横浜ベイスターズは、12年ぶりの勝率5割越えだったにもかかわらず4位に沈んでいました。大矢明彦は、チームでいきなり内野総コンバートという大改革を実施します。さらに、中継ぎの盛田幸妃を先発に転向もさせました。すると、チームはいきなりの開幕ダッシュに成功。大矢明彦は4月でいきなり15勝6敗と9個の貯金を作り、首位に躍り出ました。しかし、5月にはいると集団風邪が大矢明彦の勢いをそいでしまいます。実に一気に貯金を使い果たす7勝18敗と大きく負け越して、一気に借金を背負い、順位を5位に下げてしまいました。コンバートも結局、成功したのは遊撃手の石井琢朗のみであり、そこから月間勝ち越しをすることなくシーズンが終了。大矢明彦の監督初年度は55勝75敗の借金20で、5位に終わりました。

1997年、大矢明彦は、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎えてスタート。前半戦でチームは波に乗れず、最下位争いと低迷します。大矢明彦は、6月末で借金9を背負い、ついに最下位まで転落してしまいました。しかし、ここからチームは大逆襲を開始。7月に13勝5敗で勝率5割までこぎつけましたが、まだ勢いは衰えません。大矢明彦は8月を20勝6敗で乗り切り、一気に順位を2位まで押し上げました。9月以降、負け越しましたが、チームは18年ぶりの2位を死守。鈴木尚典が首位打者、三浦大輔が最高勝率と投打で牽引しましたが、何よりチーム2位の原動力となったのはクローザーの佐々木主浩でした。佐々木は、シーズン無敗で防御率も0点台、3年連続の最優秀救援投手となり大矢明彦を支えました。首位との差は11ゲームありましたが、今後の優勝争いを予感させた大矢明彦に続投希望がよせられましたが、まさかの退団が決定。翌年、権藤博が監督に昇格して38年ぶりのリーグ優勝そして日本一を達成しますが、もちろん大矢明彦の手腕でもあったということです。

権藤監督そして後任の森祇晶氏と4年連続でAクラスを実現した横浜でしたが、2002年から5年間で最下位4度と再び低迷時期に入っていました。そんな最悪なチーム状況の下、再建に向けて白羽の矢が立ったのも大矢明彦でした。大矢明彦は、第1期政権に続き、チーム改革を実施。前年、クアトロKとして整備した中継ぎ陣を解体し、加藤武治と川村丈夫を先発へコンバート。さらに当時低迷していた鈴木尚典をスタメン起用して、復活を期待しました。コンバートは失敗に終わりましたが、大矢明彦は移籍組に助けられます。投手では寺原隼人が12勝に、工藤公康が7勝、野手では仁志敏久もレギュラーとして活躍しました。さらに生え抜き野手の村田修一が初の本塁打王と、大矢明彦を喜ばせます。結果、勝率5割にあと1勝まで迫り、71勝72敗1分の4位と大矢明彦は健闘を見せました。

翌年ももはや定番となった大矢明彦の改革が敢行され、寺原をクルーンの後釜クローザーにすえました。しかし、先発投手陣が弱くリリーフにかなりのしわ寄せがきてしまい、一度も月間勝ち越しができませんでした。大矢明彦は、このシーズン48勝94敗2分と勝率4割にも遠く及ばない惨敗で最下位に転落しました。2009年も、大矢明彦体制でスタートしましたが、いきなり開幕6連敗スタート。交流戦前に通算成績が13勝24敗となった大矢明彦は、休養を発表。事実上の解任通告となり、残るシーズンの指揮は二軍監督の田代富雄がとりました。それでも負の連鎖はとまることなく、51勝93敗と大きく負け越し。2年連続最下位となりました。

大矢明彦横浜監督 成績不振で途中辞任、後任は田代富雄氏: れおぽん日記
著者プロフィール

コメント (0)

この記事にはまだコメントがありません。

この記事の著者

Pro Crix オススメ記事

人気記事ランキング

本日のHotNews

本日の試合 (3/27)

本日の試合はありません

順位表

キーワードリスト

コメントを上書きしますか?

すでにコメントしたことのあるニュースです。
再度コメントすると上書きされます。

コメントを削除しますか?

削除すると元に戻すことはできません。

ログイン

Loading...

Baseball Crixが選ぶ今月のベストプレイヤーは誰だ!?
「絶好調!中畑清」ら、野球界の名OBが選び、
あなたの投票によって決定します!

いますぐ投票する