権藤博の監督としての活躍について

2年で65勝をあげるも、太く短い現役時代を送った権藤博。コーチ時代は登板過多を嫌う指導で多くの投手を育てました。権藤博は、横浜ベイスターズの監督に就任すると放任主義を貫き、38年ぶりのリーグ優勝、日本一を実現。3年の監督ですべてAクラス入りと、権藤博は球団初の快挙を成し遂げました。

BBCrix編集部

権藤博の監督・コーチ歴について

権藤博の指導者歴

1973年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1974年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1975年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1976年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1977年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1978年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1979年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1980年 権藤博:中日ドラゴンズ二軍投手コーチ
1981年 権藤博:中日ドラゴンズ一軍投手コーチ
1982年 権藤博:中日ドラゴンズ一軍投手コーチ
1983年 権藤博:中日ドラゴンズ一軍投手コーチ
1988年 権藤博:近鉄バファローズ一軍投手コーチ
1989年 権藤博:近鉄バファローズ一軍投手コーチ
1991年 権藤博:福岡ダイエーホークス一軍投手コーチ
1992年 権藤博:福岡ダイエーホークス一軍投手コーチ
1993年 権藤博:福岡ダイエーホークス一軍投手コーチ
1997年 権藤博:横浜ベイスターズバッテリー・チーフコーチ
1998年 権藤博:横浜ベイスターズ一軍監督
1999年 権藤博:横浜ベイスターズ一軍監督
2000年 権藤博:横浜ベイスターズ一軍監督
2012年 権藤博:中日ドラゴンズ一軍投手コーチ

権藤博の監督成績

通算3年 Aクラス3回
1998年 横浜ベイスターズ 権藤博 136試合79勝56敗1分 勝率.585 1位
1999年 横浜ベイスターズ 権藤博 135試合71勝64敗0分 勝率.526 3位
2000年 横浜ベイスターズ 権藤博 136試合69勝66敗1分 勝率.585 3位

大人の野球で38年ぶりに横浜をリーグ優勝、日本一に導いた権藤博

アセンションへの道程 〜ある外科医のスピリチュアル〜:三浦 大輔(横浜DeNAベイスターズ)、歴代1位タイとなる23年連続勝利

鳥栖高校時代から社会人へ進んだ権藤博は、1961年中日ドラゴンズに入団。名投手・杉下茂の背番号20を受け継いだ権藤博は、ルーキーイヤーにいきなり35勝、防御率1.70、310奪三振でタイトルを総なめ。翌年も権藤博は30勝で最多勝を獲得しましたが、この2年で実に130試合に登板していました。登板過多は、権藤博の選手人生を短くさせ、30歳という若さで現役引退を余儀なくされました。この自身の体験は、権藤博を名投手コーチへ成長させる助けとなりました。1973年から、権藤博は11年間、中日の一軍、二軍コーチを歴任。権藤博は、郭源治らを育てあげ、1974年、1982年と中日の2度目3度目の優勝に貢献しました。

ここから権藤博は古巣以外でも投手コーチとして名を馳せていきます。時を経て、1988年から権藤博は近鉄バファローズの一軍投手コーチに就任。吉井理人をストッパーに抜擢し、先発陣でも山崎慎太郎そして加藤哲郎を整備して、チーム防御率を大きく引き上げました。翌1989年、近鉄は悲願の優勝を成し遂げましたが、権藤博は仰木彬監督とそりが合わず同年退団しました。

権藤博の指導は、自身の経験の裏づけに大きく左右されていました。「権藤・権藤・雨・権藤」という流行語になるくらい、権藤博は日に日に登板していました。コーチとなった権藤博は、その経験を生かし肩は消耗品という考え方を主張。さらに自主性を重んじる指導法として、多くの選手たちに慕われました。1991年からは3年間福岡ダイエーホークスの投手コーチを歴任し、1997年から横浜ベイスターズのバッテリー・チーフコーチに就任しました。この年の横浜ベイスターズは、大矢監督の下、快進撃を見せました。前半戦は最下位争いをしていましたが、7月、8月で貯金22をたたき出しました。権藤博は前年防御率最下位だった投手陣を整備し、横浜の快進撃を支えました。チームは18年ぶりの2位に躍進し、翌年の優勝が大きく期待されました。そして驚いたことに球団は、監督にコーチだった権藤博を抜擢しました。

初めての指揮官となった権藤博は、他監督とは異なるユニークな戦略をとりました。基本的に全体ミーティングを廃止し、自身も監督と呼ばせません。そして選手の自主性を重んじ、基本的には放任主義を貫きました。自身が振るう采配については、得意な投手陣に偏っていました。ただ当時は前任の大矢監督が育てたマシンガン打線が絶頂期。さらに、権藤博は中継ぎローテーション制を確立させました。すると横浜は4月、5月の2ヶ月を5割越えで乗り切ると、6月から投打が完全にかみ合い一気に首位を捉えます。クローザー佐々木主浩も前年に続いて無敵ぶりを発揮。防御率0.64で45セーブをあげる完璧な守護神となり、以降横浜は首位を譲ることがありませんでした。横浜は2位中日に4ゲーム差をつけて、38年ぶりの優勝。さらに権藤博は、続く日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で退け、日本一まで駆け上がりました。

1999年シーズンは、一転して6連敗スタート。その後4連勝、6連敗、4連勝と連勝連敗を繰り返す不安定な戦いとなります。5月を終えて、借金6を背負いましたが、打線は前年に続く絶好調で6月以降、すべて勝ち越します。チーム打率.294という脅威の打撃陣でしたが、投手陣はリーグ5位に転落し、横浜は71勝64敗の3位でシーズンを終えました。権藤博が1年目から続けた放任主義は、その後、皮肉にもチーム低迷の原因のひとつとなっていきます。コミュニケーション不足による誤解も生じ、チームはばらばらになっていきました。それでも打力は健在だった横浜は2年連続でチーム打率トップ。2000年も後半に盛り返した横浜は、69勝66敗1分け、前年に続く3位でシーズンを終えました。大矢監督最終年から続く連続Aクラスは、最長の4年となりました。そして、この年限りで権藤博は監督を退任しましたが、初のオールAクラス、そして大洋・横浜史上最高勝率監督として名を残しています。

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