3球団を日本一に導いた大投手!現役時代に城島を名捕手にまで育て上げた工藤公康の野球秘話

工藤公康は現役時代14度の優勝、11度の日本一を経験。西武、ダイエー、巨人の3球団で日本一を味わい、その都度スマイルを見せた。今回は、そんな工藤公康の野球歴についてまとめてみた。

BBCrix編集部

プロ入り前の工藤公康

名古屋電気高等学校時代、工藤公康は1981年の第63回夏の甲子園に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目のノーヒットノーランを記録。工藤公康はチームをベスト4に導いた。

同年のドラフト会議で工藤公康は、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武が6位で強行指名した。その後、説得に応じ入団となった。工藤公康入団時の経緯については、管理部長の根本が主導してドラフト指名し、入団にこぎつけたと長年伝えられていたが、ドラフト会議時の根本は工藤公康の指名について反対の立場で、指名を強く進言したのは当時西武監督に就任したばかりの広岡だった。

プロ入り後の工藤公康

【西武黄金時代の終焉⑤】1994年工藤公康、涙のFA移籍 | プロ野球の謎を解くブログ

工藤公康は2006年までに在籍した3球団で優勝と日本一を経験しており、このことから「優勝請負人」と呼ばれ、日本シリーズでも数々の記録を保持している。

その他、工藤公康は、江川卓を以てして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本。」と形容されるなど、多くの関係者に賞賛される投球フォームを持つ。
工藤公康の持ち球は主にストレートとカーブの二種類と少なかった。その中で工藤公康は、130キロ後半と140キロ後半のストレート、カーブに至っては100キロを割るスピードから120キロ代までを投げ分けていた。(実際の工藤公康はダイエー移籍後頃にスライダー、フォークを習得した。)

また、工藤公康は現役時代、毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた。それが蓄積され1988年シーズン途中から工藤公康は不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、1989年シーズン、工藤公康は何度も二軍落ちを繰り返し、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際の工藤公康のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、引退を考えていた工藤公康を妻が説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤公康はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった。

1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤公康であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを工藤公康は選択。篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り工藤公康は見事胴上げ投手となっている。これについて、工藤公康を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤公康自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。

ダイエーで工藤公康は投手陣の柱として活躍すると共に、城島に対して日本を代表する捕手に育てあげた。特にリード面に関して工藤公康は厳しかった。試合中に工藤公康がベンチ前でリードの意図について城島を問い詰める場面が度々見られたり、打たれるとわかっていても敢えて城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど徹底したものであった。工藤公康は正に体当たりの指導で城島を育てていったのだった。城島自身も、試合後に工藤公康の宿泊しているホテルの部屋まで出向き、その日の配球について教えを請うなど貪欲な向上心を見せ、そうした甲斐もあり城島は正捕手に定着、1999年シーズン開幕時には、工藤公康は城島に対して「今年一年お前の出すサインには首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と述べていた。その年チームは球団初のリーグ優勝・日本一に輝き、日本一決定後のマウンド付近で工藤公康は泣きじゃくる城島と抱擁した。工藤公康・城島健司のバッテリーはシーズン終了後に最優秀バッテリー賞を受賞した。

工藤公康が巨人移籍1年目の2000年7月14日のヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回1死ランナー1,2塁ではペタジーニ・古田に対し、打席内でのわずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振に獲った。当時の監督であった長嶋はこの工藤公康のピッチングに感動し、次の試合もあるのでとこの回での交代を希望した工藤公康に「工藤、次の試合はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々と輝かせて工藤公康を説得、意気に感じた工藤公康は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げた。

プロ入り後、工藤公康はノーヒットノーランを達成することはなかった。惜しくも逃した試合として1986年7月13日、1999年9月11日のいずれも近鉄戦で工藤公康は、前者は9回1死まで完全試合、後者は8回までノーヒットノーランに抑えながら、2試合とも鈴木貴久に本塁打を打たれた。

監督としての工藤公康

プロ野球:正力賞にソフトバンク・工藤監督 - 毎日新聞

2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山の勇退を受け、その後を引き継いで工藤公康はソフトバンク監督に就任した。投手出身のホークスの監督は杉浦以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤公康の背番号は当初、王がダイエー/ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった。工藤公康のソフトバンクの交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定した。工藤公康のソフトバンクは千葉ロッテとのCSファイナルを4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった。 そして、10月29日就任1年目にしてレギュラーシーズン、CS、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、工藤公康は野球殿堂入りを果たした。

工藤公康の今後

工藤公康は、選手として常勝軍団の西武で中心を担ってきた。
現在の工藤公康は、常勝ソフトバンクの指揮官である。
彼ほど常勝が似合う男は珍しい。
今後も勝ち続ける工藤公康のスマイルを、我々は幾度となく目撃することになるだろう。

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