身体能力と野球センスの高さから将来を期待されたペドラザ

 ペドラザのフルネームは、ロドニー・バーナード・ペドラザ(Rodney Bernard Pedraza)。1969年生まれのアメリカ合衆国テキサス州出身。学生野球で名を馳せた選手でした。

 テキサス大学に進学したペドラザは、その身体能力と野球センスの高さから注目の選手となり、1991年のメジャーリーグのドラフトで指名を受ける事になります。

 1チームあたり50人まで指名できるメジャーリーグのドラフトにおいて、ペドラザは何と2巡目での指名を受けたのです。指名したのはモントリオール・エクスポズでした。

ドラフトで上位指名を受けるも一度もメジャー昇格なし

 最初に所属したモントリオール・エクスポズでは結果を残せず、一度もメジャーに昇格することなく移籍を余儀なくされます。

 1994年、ペドラザはコロラド・ロッキーズに移籍します。ロッキーズでは3年間を過ごしましたが、ここでもメジャーに昇格することは出来ず、マイナーチームでプレイする日々が続きました。そして1997年、自由契約を言い渡されてしまいました。

 それでも野球を続けたかったペドラザはメジャーリーグを諦め、1997年より独立リーグでのプレイを選択します。所属したのはノーザンリーグという独立リーグのウィニペグ・ゴールドアイズでした。ここでペドラザはその実力が認められ、翌年にはメジャーリーグに復帰します。契約したのはテキサス・レンジャーズでした。

 しかし、メジャーリーグの1つ下のチームであるマイナーチームではなく、さらにその1つ下の2Aのチームでのプレイが続きます。

 そして1999年、ペドラザは日本からの誘いを受け、福岡ダイエーホークスへの入団が正式に決定します。メジャー経験のないままの来日でした。

日本で先発からクローザーへ転向し大成功

 当初は先発ピッチャーとしての採用でしたが、当時ピッチングコーチを務めていた尾花高夫がペドラザの適性は先発ではないと判断。クローザーとして起用されたのです。このクローザー転向が大成功だったのです。

 この年、48試合に登板し3勝1敗27セーブを挙げたペドラザ。防御率も1.98と安定感のある投球で、ホークスの福岡移転後初の優勝と日本一に貢献。ペドラザは胴上げ投手になりました。

絶対的守護神となったペドラザ

 ペドラザの活躍はその後も続き、翌2000年には51試合に登板し3勝35セーブ、防御率2.15という成績をおさめます。

 この年もホークスはリーグ優勝を果たし、ペドラザは2年連続で胴上げ投手となります。自身初のタイトルである最優秀救援投手賞も獲得しました。

 翌シーズンの2001年は他球団のマークも厳しくなり、打たれる場面も多くなりましたが、それでも54試合に登板し、4勝4敗34セーブを挙げます。防御率こそ3.65と奮いませんでしたが、ペドラザの34セーブはリーグ最多となり、2年連続で最優秀救援投手賞を獲得。まさに「絶対的守護神」だったのです。

急激な衰え、怪我 そしてシーズン途中での解雇

 しかし、2002年のペドラザは大きく成績を落としてしまいます。34試合1勝2敗21セーブ、防御率3.30の成績でシーズンを終えました。

 痛打を浴びるケースが増えた原因は勤続疲労、加齢による球威の低下などが挙げられましたが、当時の指揮官であった王貞治監督は「ペドラザはウェイトトレーニングのしすぎだよ。投手はあんな体になっちゃいけないんだ」と語っています。

 この年のオフ、ペドラザは読売ジャイアンツとの契約を発表しました。巨人はペドラザはまだ活躍できると踏んでおり、主にセットアッパーの役割を任せる予定だったといいます。しかし、ペドラザは右肩を故障。復帰後も加齢による衰えを隠すことは出来ず、わずか7試合の登板でシーズン中に解雇を言い渡されてしまいます。

ペドラザのその後は?

 その後、引退したペドラザはアメリカに帰国し、地元のテキサス州にて福岡ダイエーホークスの本拠地であった福岡ドーム(現在の福岡ヤフオク!ドーム)20個分もの広大な敷地の牧場を経営しているそうです。

 ペドラザはホークスの歴史に名を刻んだ名クローザーとして、今もファンたちの記憶の中に生き続けています。

BBCrix編集部

著者プロフィール BBCrix編集部